『俳句斜説』・5月号  【伝わるということ】

俳句は一読したときに、意味が明瞭に通じ、しかもその音調によって心を打つようなものでなくてはならぬ――これはむかしからきまっていることなのだが、勉強ざかりの時は、とかく自分の前方だけを見つめるので、この基本を忘れやすい。
水原秋櫻子が『自選自解句集』(講談社)の中で自らをふり返りながら述べていることです。言い方はまちまちですが、著名な俳人が決まって口にされているのが、こうした考え方です。

春ひとり槍投げて槍に歩み寄る  野村登四郎
十年以上も前に、どこかで出会った句です。俳句のハの字も知らない頃だったのに、何だかグッときたことを今でも覚えています。春の午後、閑散としたグランドの横を通ると決まってこの句が浮かんできます。槍の長さと字余り云々といった専門家の鑑賞もあるのでしょうが、私の胸には、青年のいつ果てるとも知れない孤独な作業の切なさが強く迫ってきます。自分でケリをつけるしかないこうした春の光景には、秋とは違って、湿気を帯びた深い愁いが漂っている気がするのです。

それに比べて、能や狂言のように一部閉ざされた世界にしか理解されにくい作品を、私はどうしても好きになれません。例えば、金子兜太氏の代表作の一つと言われる
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
といった類の句の良さがいつまでたっても分からないのです。今のところ、私の勉強不足であることには間違いないのですが、敢えてそれで構わないと思っています。一々こまごまとした解説を傾聴しなければ伝わらない句に、さほどの価値があるとは思えないからです。


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       新緑 【ふれあいの森/23日】

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