『俳句斜説』・6月号  【難読漢字】

『枕草子』の一節に、「見るにことなることなきものの、文字にかきてことごとしきもの(見た目は格別なところはないものなのに、漢字で書くと仰々しいもの)」としていくつかの例が挙げられています。

鴨頭草(つゆくさ)、胡桃(くるみ)、虎杖(いたどり)や覆盆子(いちご)なども出てきます。清少納言は基本的にこれらを消極的に捉えていて、「いたどり」に至っては、「虎には杖など要らないのに」、とまで書いています。

同じ事柄でも仮名と漢字とでは受ける印象が違い、そのうえ同じ意味の漢字でも異なる表記があるのは、日本語の実に厄介なところです。そしてこの厄介さを正面からまともに引き受けているのが「俳句」の世界です。歳時記は、「仰々しい」漢字の宝庫と言えるのです。

『日本人と漢字』(集英社)の著者笹原宏之氏は、同書の中で、【秋桜】を例に"漢字は変化する"、と書かれています。それまでは「コスモス」を「秋桜」と表記した辞書はなかったのに、さだまさしが山口百恵にサラリと歌わせたため世に定着し、ついには辞書にも載るようになった、という例です。

氏は、「辞書こそが正しい」という自らのそれまでの考え方を反省した、とされています。つまり、世の中が言葉をつくり生き残ったものが新たに辞書にも掲載されるようになるのであって、その逆ではない、という意味のことを言われているのです。同書には、『われわれが変わるからこそ、ことばも漢字も変わっていく。それは我々が生きている証でもあります』、と書かれています。

1981年に当用漢字から常用漢字に変わりました。飛躍的に漢字使用の自由度が高まったのですが、その背景には世の中に定着している度合いで使用の可否を判断すれば事足りるのではないか、という思想がありました。私は、俳句もそのことを強く意識すべきではないか、と思います。つまり、『歳時記』にあるかどうかではなく、今の世に生きているかどうかを使用基準にすべきではないか、ということです。"文字"で思いを伝えるとは、そういうことなのではないでしょうか。俳句が真の文学になるためにも、「まだそんな漢字を使っているの?」、と清少納言に突っ込まれるのは、やはり少し拙いような気がするのです。


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      幼い胡桃(!?)  【長良川/11日】
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