『俳句斜説』・5月号 【オリジナリティの呪縛】

松岡正剛の"千夜千冊"第1671夜(*)は、『あらゆる小説は模倣である。(清水良典著/幻冬舎新書)』です。そこに、次のような記述があります。
http://1000ya.isis.ne.jp/1671.html

(前略)寺山修司は剽窃の天才だった。(中略)演出家で出色の世阿弥論を書いた堂本正樹は寺山の友人でもあるが、誰もが口ずさんだ「マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」が、次の3句の組み合わせであったことをバラしてみせた。「夜の湖あヽ白い手に燐寸の火」(西東三鬼)、「一本のマッチをすれば湖は霧」(富澤赤黄男)、「めつむれば祖国は蒼き海の上」(赤黄男)。よくぞこの3句を象眼して一首に仕立てたと思う。(以下略)

バラエティーで活躍中の夏井いつき氏が、『NHK俳句』5月号で「類想句を越える秘策」を語られています。その中で、過去に「空五倍子色(うつぶしいろ*)」という色を探してきた句を最高点に評価した、と述べられています。しかし、そうした誰も知らない色の「発見」を良しとする姿勢は正しいのでしょうか。珍しい単語を探す「言葉遊び」に創造性があるのでしょうか。もっとはっきり言えば、そうした作句姿勢を推賞することは「専門家」として誤りである、と言いたいのです。
http://www.sachio-yoshioka.com/blog/2002/12/d17-2/

同じ5月号の「巻頭名句」に『草笛を子に吹く息の短かさよ 馬場移公子』があります。昔は簡単に吹けた草笛なのに、今は思いがけない息のか弱さにハッとしたというものです。平易な言葉と情景ですが、そうであるが故に、その万感の思いと切なさが強く胸に迫ります。

『創造性』とは、そこら辺にある珍しい言葉を探してくることとは全く質の違う概念です。冒頭の千夜千冊に「オリジナリティを誇ることこそ、怪しい」というジャン・コクトーの言葉の引用がありますが、このことは、私達も一度胸に手を当てて考えてみてもいいことなのではないでしょうか。


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     最後の椿 【ふれあいの森/26日】
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