俳句斜説・2月号 【季重なり】

一句一季語が分かりやすいが一句二季語でも問題ない、と秋桜子の解説(*)にあります。そこでは芭蕉や蕪村の他に次のような句を挙げ、季重なりの罪は重くないことを説明しています。(*『俳句鑑賞辞典/水原秋桜子編』東京堂出版)
  来て止る雪片のあり紅椿  たかし

では、「季重なり」を過度に忌避する風潮は、何時から何故どこで始まったのでしょうか。薄々分かったことは、どうやらハウツー本で共通して強調されていることのようです。季語の真意も分からぬ初心者は、それを二つも使ってややこしい句を作るべきではない、というものです。

しかし、四季折々の感動の場面を17文字に切り取るという原点さえ忘れなければ、季語がいくつかなんてことは枝葉末節なことに思えます。仮に異なる季節の季語が含まれていても、です。

例えば、雪の降る川岸に翡翠(かわせみ)を見つけたとします。冬は小魚も動きを止めますから、そう簡単に獲物は見つかりません。枯れ枝で身じろぎもせず水面を見詰める彼の姿には、悲壮感さえ漂います。そこでこの情景を詠む場合、夏の季語とはいえ翡翠を言い換えることはどうしても出来ません。

私は、避けるべきは重なる「季節」であり重なる「季語」ではないと思います。

「雪」の中の「翡翠」は、紛れもなく冬の光景です。この先は、ただ五七五に収めることだけに専念すればいいのです。



画像
      鳥羽川の翡翠 【17/1/14の記事から】

――――――――――――――――――――――――――――――――――――